万年筆とインク
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表紙

第4号
1992年8月15日 発行

発行

万年筆博士
発行者

山本雅明
企画・編集

ザウルス
あやしい編集長

徳持耕一郎

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■高村光太郎に迫る

鳥取大学の住川助教授は、万年筆博士の山本さんとの出会いから、それまで進めておられた高村光太郎の研究に新しい角度からの分析を加えられました。




* * *

あやしい編集長=徳持さんのワークショップのこけらおとしで、私はしたたかに酔っ払った。その宴席でたまたま隣り合わせた、あやしい店主=山本さん --- 初対面のその人を相手に、私は酔いにまかせて長いおしゃべりをしたらしい。しばらくして山本さんから電話があり、「高村光太郎愛用の万年筆を筆跡から再現してみようという話、あれやってみましょうよ」とのこと。山本さんは自慢のネパール風ミルクティーを参会者にふるまいながら、この酔漢のたわごとをきちんと聞き届けていてくださったのだ。

高村光太郎は詩人・彫刻家として著名な人だが、その人が多くの書作品をのこしたことは案外知られていない。戦後の光太郎は、戦争協力の責任を痛感して、岩手県花巻の山小屋で農耕自炊の生活を送った。そのときたくさんの書作品 --- 和紙に墨でしたためた墨書作品が生まれた。しかし、「書作品」は墨書作品ばかりとは限らない。何よりも彼は詩人であったから、生涯にわたって膨大な数の詩稿をのこした。詩稿のほとんどは万年筆によるペン書であって、それらもまた美しい書作品であることに変わりはない。

墨書作品が<ハレ>の作品なら、ペン書は<ケ>の作品である。服装でいえば、晴れ着とふだん着の違いがある。同じ人のペン書と墨書を見くらべながらあれこれ想像するのは、ふだん着から晴れ着に着がえるときの身のこなしをのぞき見るようなもので、何ともひそやかな楽しみがある。いってみれば、この「のぞき」が高じて、愛用の万年筆の再現という企てに発展したわけである。

光太郎は明治16年(1883)の生まれだから、毛筆を日常の筆記具として常用したほとんど最後の世代である。それと同時に、青年の光太郎が欧米の留学から帰国した明治40年代は、日本でも万年筆が広く普及しだした時期にあたる。

こうした複雑な時代背景をふまえながら、山本さんは熱心に光太郎のペン書と語り合ってくれた。そしてその対話の成果が、いま目の前にある3本の万年筆に集約されたのである。

この3本の万年筆は、いずれもやや大柄である。ペン先はそれぞれに個性的だが、どれも思いのほか軟らかく、わずかな加圧にもはっきりと応答する。総じて毛筆の筆触に近い。山本さんの分析では、光太郎はペンをやや立てて、無理なくゆっくりと書いただろう、とのこと。私も同感だ。ならば、光太郎における日常のペン書とあらたまった墨書とは、まっすぐにつながるものであったようだ。ふだん着から晴れ着に着がえる、その一連の立ち振る舞いはいかにもスムースであり、そこには奇妙な気どりがない。こうなると、光太郎の次の言葉も実感をもって受けとめることができる。山本さんには感謝のほかない。

書などといふものは、実に真実の人間そのもののあらはれなのだから、ことさらに妍(けん)を競ふべきものでもなく、目立つたお化粧をすべきものでもない。その時のありのままでいいのである。
(「書についての漫談」より)


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万年筆博士



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